出版时间:2010-5 出版社:文藝春秋 作者:江刺昭子
内容概要
樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)
東京に生まれた。2人の兄がいる。中学から父の神戸大学赴任にともない兵庫県の芦屋に移る。
兵庫県立神戸高等学校を卒業後、1957年に東京大学文科二類に入学。共産主義者同盟(ブント)のメンバーとして1960年の安保闘争に参加する。76名が検挙された1960年1月26日の全学連羽田空港占拠事件の時に検挙され拘置所に入った事があるがこの時は不起訴処分となっている。1960年6月15日のデモで全学連主流派が国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡した。
死亡当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。
生前キンマをこよなく愛していた。
警察病院の検死では死因は胸部圧迫及び頭部内出血となっている。これについて警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。樺の死因は転倒が原因の圧死であったが、学生側の死亡者を出したことで警察は重点的にマスコミから批判される事となった。
6月15日の事件はラジオでも実況中継され、樺の死は多くの人に衝撃を与えることとなった。また、毛沢東は樺の死について、「樺美智子は全世界にその名を知られる日本の民族的英雄になった」と述べた。
母・光子による遺稿集『人しれず微笑まん』(1960年)と書簡集『友へ―樺美智子の手紙』がある。また雑誌『マドモアゼル』が生前の彼女に最後のインタビューを行った。
羽田空港の事件で検挙されるまで家族は学生運動に参加している事を知らなかった。
安保闘争で全学連主流派と対立した日本共産党は、当時、樺をトロツキストと断じていた。その死に際しても6月19日の樺智子全学連追悼集会への出席を拒否し、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と官憲と共に全学連側の行動も非難した。
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